公益財団法人 松風会

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吉田松陰関係人物「あ」

會澤恒蔵(1782~1863)

名は安、字は伯民、号は正志斎・欣賞斎・憩斎。天明2年(1782)5月25日水戸藩士恭敬の家に生まれる。藤田幽谷の門に入り、刻苦勉励して次第に頭角を表す。寛政11年(1799)彰考館写字生となり、文化元年(1804)より諸公子の輔導に当たり、斉昭(なりあきら)は当時5才であったが、その後17年間その指導を受ける。

文化5年(1808)歩士に列す。文政6年(1823)彰考館総裁を助け、天保元年(1830)郡奉行、11年小姓頭兼弘道館督学、弘化元年(1844)斉昭隠居し、翌年會澤も退く。その後斉昭の罪を訴え嘉永2年まで禁錮となる。

嘉永6年アメリカ艦隊が浦賀に来たことを機会に藤田東湖と藩主を助け多くの働きをする。文久3年7月14日82才で没す。明治24年正四位を贈られる。

彼は水戸学の最も有力な代表であり、著述70余巻、『新論』など大いに読まれた。

松陰は嘉永4年12月、何度も訪れ大いに啓発される。その後も水戸学の研究を続け、大いに影響を受ける。(7巻55号、9巻174p,177p,189p,191p)

青木研蔵(1826~1870)

周弼(しゅうすけ)の弟で秋渓と号す。文化9年(1812)周防大島郡和田村(東和町)に生まれる。幼少の時両親を亡くし、兄と共に蘭方医を志し、大いに勉強し、長崎でシーボルトの教えを受け、後江戸の宇田川榛斎の門に入り、認められ伊東玄朴の塾で教える。

嘉永の初め萩に帰り開業する。嘉永2年に長崎へ赴き種痘法を学ぶ。文久元年藩世子の侍医となり、3年兄の家を継ぎ藩の医学所好生堂の教諭となる。

明治初年朝廷に召されて大典医となり、明治3年9月8日56才で没す。

松陰は安政2年野山獄に在り、同囚の病気の療法を知らないため医書のことを研蔵に問い、その指示によって多くの翻訳医書を読んだ。(2巻326p,9巻415p,416p)

赤川淡水(佐久間佐兵衛)(1833~1864)

通称直二郎、別名義済、号は思斎、佐久間を継いで佐兵衛と改める。天保4年萩に生まれる。中村道太郎の弟で、幼くして父を亡くし、伯父赤川又兵衛に養われる。

初め徳山の黒髪相模の塾に入り、また周防右田の太田梁平に学び、継いで藩校明倫館、嘉永2年9月松陰の兵学門下となる。安政2年水戸に遊学し会沢正志斎に3年間師事し、帰藩して安政5年8月明倫館舎長、次いで助教となった。

松陰が幽閉中も文評をお願いしたり、再入獄の時も奔走した。しかし、藩府との協調を重んじたため松陰の心を疑わせたこともあった。文久年間京都にあり、攘夷論を朝議することに功があった。元治元年禁門の変には家老福原越後に従い大いに戦った。恭順党のため投獄され、11月12日斬首される。32歳で「野山十一烈士」の一人である。明治24年正四位を贈られる。(8巻356p,378p,585p,606号、9巻360p,366p,10巻169p)

赤根武人(松崎武人)(1839~1866)

赤禰とも書く。通称は幹之丞、旧姓は松崎、周防大島郡柱島の医師三宅の子である。

幼くして海防僧月性(げっしょう)に学び、熊毛郡阿月(柳井市阿月)の郷校に入り、その地の武士赤根雅平の養子となる。

安政3年(1856)8月頃松陰門下になったが、後に京都に出て梅田雲浜(うめだうんぴん)に学んだ。安政5年9月梅田雲浜が捕らえられると、雲浜に寄せられた志士の書簡を焼き捨て証拠を隠滅し、捕らえられたが疑いが晴れ松下村塾に松陰を訪ねる。

松陰没後も松門下生と交流し、文久年間は京都・江戸の間を往復し国事に働き、文久3年(1863)1月、江戸で松陰の遺骨改葬に参加し、馬関(下関)における外国艦船砲撃にも加わり、文久3年9月高杉の後を承けて奇兵隊の総督となり、翌年8月四国連合艦隊と戦う。

慶應元年(1865)高杉の藩論統一運動に異見を懐き、遂に新撰組伊東甲子太郎の配下となり、恭順派として活動する。慶応2年1月捕らえられ25日、山口鰐石にさらし首となる。28歳。(5巻212p,232p,7巻264号、8巻372号、9巻477p)

秋良敦之助(1811~1890)

名は貞温、周防阿月の人、藩の重臣浦靱負(うらゆきえ)の家臣で早くから明倫館に学び、松陰の父及び玉木文之進(たまきぶんのしん)と親しく、松陰も幼少の時からよく知っている。

浦家の加判役として財政整理に働く。尊王攘夷思想を抱き、月性(げっしょう)の感化を受ける。嘉永から安政2年頃まで江戸におり、松陰はよく時事を論じた。

安政元年我が国の水軍が微力であることを憂慮し、蒸気に代わる轆轤機を使う人力船を発明する。安政4年京都で梁川星巌(やながわせいがん)・梅田雲浜(うめだうんぴん)等と出資者を得て二隻を造った。

松陰は彼を尊敬し、肖像画を描かせるため松浦松洞(まつうらしょうどう)を阿月に派遣した事があった。その後浦靱負に従い、国事に奔走し、元治元年(1864)佐々木亀之助と共に義勇隊の隊長となる。

維新後神道中教院局長・少教正・鎌倉宮宮司となったことがある。明治23年80歳で亡くなる。大正元年正五位を贈られる。(第2巻449p,第4巻294p,第6巻152p,213p,第7巻306号、第8巻298号337号、606号、第9巻359p)

安積艮斉(あさかごんさい)

名は信、重信、字は思順、通称祐助、号は艮斉または見山楼、岩代郡山の人。江戸に出て佐藤一斎に学び、頭格を現す。後林述斎の門に入り名声を博す。

嘉永3年(1850)61歳のとき昌平黌(しょうへいこう)教授となる。蔓延元(1860)年67歳で亡くなる。

『論語ひ註』『論孟?えん旨』『見山楼集』『艮斉文稿』『艮斉詩稿』『艮斉閒話』などの著述がある。

天保12年(1841)毛利敬親が江戸の藩邸に有備館(ゆうびかん)を設け、そこの教授となる。

松陰は嘉永4年(1851)遊学の時学び「経学文章、卓爾たる大家にして諄々人を誘ふ、皆以て吾が学を輔くべし」と述べている。(第1巻290p,第7巻20,132号、第9巻辛亥日記)

阿座上正蔵(1846~1864)

名は正光、字は孝徳、弘化3年(一節には元年)長州藩士の家に生まれる。詳しいことは分からないが、安政4年12歳の9月、松陰の兵学門下となる。漢学も併せて学ぶ。6年松陰の東行を送る詩がある。

文久3年(1863)5月馬関外国戦艦砲撃戦には壬戌艦に乗り組んで戦い、次いで荻野隊に入りて活動する。元治元年禁門の変に國司信濃い従い、嵯峨天龍寺に屯し、7月19日の戦いに中立売門で重傷を負い19歳で自殺する。(第9巻553p,591p,第10巻172p)

麻田公輔

周布政之助を見よ

足代権大夫(1784~1856)

名は弘訓(ひろのり)、号は寛居(ゆたい)、天明4年に生まれる。父は弘早、家は世々伊勢の外宮神官であった。荒木田久老・本居大平・同春庭等に学び、京都・江戸の大家と交遊し、神典・国史・律令・歌集等の研究で知られ、著述も多い。安政3年11月5日73歳で亡くなる。

松陰は嘉永6年5月、同12月江戸に下る途上に訪問する。

有吉熊次郎(1843~1864)

名は良明(良朋と書いたものがある)、字は子徳、天保14年長州藩士近習傳十郎の次男として生まれる。幼くして明倫館に入り、安政5年16歳の春松陰門下となる。

「有吉質直にして気あり、而して本と読書を以て業を建てんと欲す、今乃ち慨然相従ふ」とは松陰の評である。

安政5年11月間部老中要撃策に血盟したが果たさず、叔父白根多助の厳重なる監督下に置かれたが、12月松陰投獄を聞き罪明論を以て奔走し、遂に家に幽室となる。

松陰は「子徳は満家俗論にして、おそらくは自ら持すること能はざらん。然れども其の正直慷慨未だ必ずしも摩滅せず、則ち亦時ありて発せんのみ」と言っている。

後再び明倫館に入り、文久元年7月高杉晋作と共に御番手として江戸に下り、有備館で勉強する。

翌年11月久坂・高杉等の攘夷血盟に加わり、12月品川御殿山の英国公使館を焼く。文久3年藩命を受けて航海術を学び、後京都に上り学習院に入り、松門の同志と共に列藩の志士に交わり、攘夷即行の気運醸成に当たる。5月帰国して久坂玄瑞と共に山口で八幡隊を組織する。

元治元年7月19日禁門の変には久坂玄瑞・入江九一等と鷹司邸に籠もったが勝ち目がなく自刃する。享年22歳であった。明治24年正五位を贈られる。(第4巻478p,戊午文稿厳囚紀事・投獄紀事、第5巻180p,273p,274p,第8巻327号、332号、425号、第9巻448p,452p以下、580p,596p,第10巻94p,172p)

天野清三郎(渡邊蒿蔵)(1843~1939)

名は寛、松陰は後起雄と呼んだことがある。安政4年15歳の時松陰の門に入る。「天野は奇識あり、人を視ること蟲の如く、其の言語往々吾をして驚服せしむ、…一世の高人物」として松陰に愛されまた嘱望される。松陰の没後長州藩の海軍所に入り、また高杉晋作の奇兵隊創立にも奔走し、国事に尽くす。慶応3年英国に留学し造船術を研究し明治7年帰国し、工部省に入り、次いで大阪司検所長となる。

後長崎造船所を創設し、大いに我が国造船界貢献する。在監中従五位に叙せられる昭和14年9月7日97歳で亡くなる。(第4巻507p,第5巻148p,180p,第8巻327号,332号,451号、588号、615号、第9巻554p,第10巻20p,21p,172p以下)

天野御民

冷泉雅二郎を見よ。

鮎沢伊太夫(1824~1868)

名は国維、字は廉夫、文政7年水戸藩士高橋諸往の次子として生まれる。長男は贈正四位高橋多一郎である。鮎沢正行の養嗣子となり、天保の末その家を継ぐ。

弘化元年藩主斉昭が謹慎を命ぜられたとき禁錮される。後矢倉奉行・寺社役等を経て、勘定奉行となる。

安政5年水戸に密勅が降りたとき上書して列藩に伝達しようとしたが認められず、安政の大獄で藩の安島・茅根・鵜飼父子等と共に捕らえられ親類預けとなり、8月23日江戸伝馬町の獄に繋がれる。27日遠島の刑を受け、11月14日改めて豊後佐伯藩に禁錮される。4年後許されて水戸へ帰り、勘定奉行に復帰し、奥右筆頭取となる。

元治元年3月水戸の内変に敗れて京都に潜伏する。明治元年正月賊徒掃蕩の勅命に従って水戸に帰り、10月1日弘道館に戦い敗れ45歳で亡くなる。明治31年従四位を贈られる。

松陰は安政6年江戸獄にあって文通し互いに許すところあった。松陰刑死後獄中追悼歌を輯録(しゅうろく)したのはこの人である。(第6巻292p,第8巻602号、603号、以下数通)

蟻川賢之助(1832~1891)

名は直方、自強堂と号す。松代藩士である。佐久間象山の、象門の二虎(吉田寅次・小林虎三)に次ぐ秀才であった。松陰は同門仲間として親しく交際する。

「高輪大議なし、但し??(ほうこう)の技、蟹行(かいこう)学等に別才あり、蓋し得易からざるなり」と松陰は見ていた。後松陰が象山と通信をするとき、よく働いた。象山蟄居後は江戸において、後には松代において、蘭学及び砲術の教授をつとめる。

文久3年正月、藩の鉄砲奉行となり、幕府の洋銃隊取調掛を兼ね、10月幕府の講武所砲術教授並びに書役となる。

元治元年藩主に従い、京師警護に当たり、明治維新の時は歩兵隊長として越奥に転戦する。2年兵部大丞となり、在職数年にして辞める。明治24年、60才で亡くなる。(第6巻92p,第7巻177,195,208,244,263,280号)

吉田松陰関係人物「い」

人物名

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