松門32号 平成15年10月1日
 
目   次
松下村塾 柱の刀痕                                             萩市松陰研究家 松田 輝夫
玖村敏雄先生私家版『吉田松陰全集』を寄贈
吉田松陰における神道受容の論理的展開
「野山獄読書記」にみる思想営為の一過程(上)山口市今八幡宮祢宜 小方 礼次
松陰と父(陶山長)                                山口県立大学事務局長 陶山 具史
防府松陰研究会の歩み〜松陰の教えの中に生き方・学問のあり方を求めて〜
                                                            会長 小川 善博
最近購入図書等
 
 
松下村塾 柱の刀痕について
                 萩市松陰研究家 松田 輝夫
 
 「松下村塾控え室の柱に刀痕があり、これは松陰が再入獄の際、塾生が憤激の余り斬りつけたあとである」という話が現在も語り継がれている。柱に刀痕らしいあとが見られるのは確かであるが、この説が何時頃から、どうして言われるようになったかは定かではない。
 このことについては、すでに大正5年(1916)、塾生で一番長命であった渡邊蒿蔵(わたなべこうぞう)氏(天野清三郎)が、次のように述べている。
 「塾の柱に刀痕あり、人これを称して、先生の獄に赴かるる時に、諸生憤激するもの一刀に之を切り付けたるなりと言い伝うれども、余の知らぬことなるをもって、先年野村子爵(野村靖)来萩の時にこれを語り出でて尋ねたるに、子爵も甚だ驚き、曰く『左様なる凶暴の行ないは先生の平生禁ずる所なれば、決してあるべきにあらず、もし行なうものあらば、先生豈これを許さんや、かかる虚事を言い伝えてくれては、村塾の面目に関す』といわれたり。」(「吉田松陰全集」10巻・「渡邊蒿蔵談話第一」)
 渡邊氏も野村氏もはっきり否定をしている。この話は、少なくとも明治後期には話題にされていたことは確かである(野村子爵の来萩は明治40年)。
 それなのに、尚且つ今日まで言い伝えられている。その一因と考えられている記録として、松陰神社では次の二作品が確認されている。
1 徳富健次郎{蘆花}著紀行文「死の蔭に」下の巻・松下村塾(大正6年・1917)に、次の記録がある。
 「松下村塾は浅い鍵形(かぎなり)に建てられた平屋づくりのみすぼらしい瓦葺(かわらぶき)。先ず貧乏華族の玄関番でも、喜んで住みそうもない程のもの。松下村塾の大きな標札がかかって、戸も窓もしまっている。…血気盛(けっきざか)りの若殿原(わかどのばら)が意気を見せて、柱なんどはさんざんに手負(てお)うている。中に「殺身成仁(みをころしてじんをなす)」と深々と小刀(こがたな)か小柄(こづか)の尖(さき)で彫り込んだのが眼を惹()いた。誰のすさびであろう? 久坂か。晋作か。弥二か。そもそも現に表にかかっている松下村塾の標札の筆者という野村か。はた別人か。松下村塾のkeynote(根本思想)が、ある日ある人の手すさびに深々と刻みつけられたこの四文字に凛々と鳴り響いている。」
 これには、「柱なんどはさんざんに手負うている」と書かれているが、それが何時何故ということは書いていない。更に「『殺身成仁』と深々と小刀か小柄の尖で彫り込んだのが眼を惹いた。」ということが書かれている。しかし、彫り込まれた字については、村塾では確認されていない。
2 徳富蘇峰作詩「松下村塾詩」(昭和10年・1935)
柱頭歴々見刀痕
堪想(かんそう)当年国土魂
花落東光寺畔路(はんろ)
松陰夫子読書村
  蘇峰詩       松下村塾柱の刀痕
                                                                                      
 現在松陰神社に奉納されている。これも、刀痕が何時何故かは書かれていない。
 以上、徳富氏兄弟が刀痕について公言していたことがわかる。
 幕末における意気盛んな若者の激情の行為として、共感を呼ぶに値するものと受けとめられたのであろう。その裏づけとして、松陰野山獄再投獄時とか、江戸伝馬町での処刑を知らされた時に、斬りつけたと理由づけがなされたのであろう。最近では松陰の書簡に「八十(佐世八十郎・前原一誠)送行の日、諸友剣を抜く者あり」(安政6年2月)と書いてあり、その時に斬りつけた刀痕だという説もある。
 前記の野村氏や渡邊氏が強調したことの裏付けとして、松陰は野山獄より書簡「諸友宛て」(安政6年・1859・2月下旬)に、「中谷・久坂・高杉等へ伝え示したく候」と、次のような内容が書かれている。
 「日頃口数が多いい人は、いざ現実に出会うと必ず黙り込んでしまい、日頃意気盛んな人は、大事に臨んだ時意気消沈する。孟子の「浩然の気」を無理に養おうとすると、無駄になりかえって害になる。聞けば、佐世八十郎(前原一誠)が長崎遊学の門出に、刀を抜いて気勢をを上げた者がいたと言う。また、高杉晋作が江戸で、吠えついてきた犬を斬り捨てたという。このような血気にはやる行動は、いざという時の気魄を衰えさせるだけだということを知らなくてはいけない。日頃から言動を慎むことが出来ないようでは、いざという時に大気魄が出ない。」
と戒めている。野村・渡邊両氏の主張が頷(うなず)ける。
 情報時代といわれる今日、人物についてもいろりろな立場で発表されている。松陰についてお話やガイドをしていると、多種多様な質問を受ける。こうした体験から、松陰についての確かな言動を的確に伝達して、より正確な松陰の人間像を把握してもらえることの大切さを痛感させられている。
 松陰は、士規七則の第一則に示している通り、人間として歩まねばならないことを一番大切に貫いた人である。例えば、塾生で一番早く志士として活動をはじめ、父母を顧みない松浦松洞に対し、松陰は「父母に順ならざれば、天下の快ありといえども亦何ぞいうに足らんや。」(安政四年)と戒めている。松陰は人間として歩むべき日々の行為にはとても厳しかった。塾生野村氏が「かかる虚偽を言い伝えてくれては村塾の面目に関す」と嘆いている。塾生の誇りある自覚が理解できる。
 ちなみに、村塾の柱を調べてみると、控室の柱はすべてが全く粗末できずも多く、一概に刀痕と断言できる状態ではない。
 また、徳富蘆花氏が「殺身成仁」を彫り込んだのは「野村か」といわれた本人が刀痕を否定している。なお、刀痕について高杉晋作が先頭に立っていたなどいわれているが、晋作は松陰再入獄時には久坂と共に江戸留学中であった。つまり、この「刀痕」については確かな裏づけがない話といえる。
 従って、「刀痕」については、現時点では松下村塾の塾生にとって、不確かな話として受け止めるべきである。
 松陰はかつて神格として崇(あが)められ、人間松陰としての論議がともすると妨げられた時期もあった。その点、今日は自由に論議ができるよき時代である。しかし、反面話題の根拠が定かかどうかを確かめることの大切さを強く体感させられている。
 
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吉田松陰における神道受容の論理的展開
 「野山獄読書記」にみる思想営為の一過程(上)
  山口市今八幡宮祢宜 小方 礼次

はじめに
 幕末における尊攘思想が培われた直接的な事象の一つとして、19世紀中葉の度重なる異国先来航と開国の要求といった未曾有の事態に、的確な対応能力の欠如を露呈してしまった徳川幕藩体制という儒教的封建制度の限界と崩壊、謂わば絶望を含んだ強い危機感に拠るところは否定出来ない事実であった。そして、それはこの西洋列強の東漸という時代の潮流において、東アジア全体を呑み込もうとする欧米の領土拡張政策の下、日本では単に政治的軍事的側面だけに限局されず、多くの志士たちに刷り込まれていたこれまでの儒教に基づく日本型伝統的倫理思想混乱させ、新たなる思索を図らせたもう一方の窮境を見逃してはならない。それは啻(ただ)に砲艦恫喝(ほうかんどうかつ)外交に対する逼迫した危機回避への政治的行動や事務的対応策だけに限らず、彼等が封建体制下において武士として付与された特権を甘受しつつも、内的にはその体制を否認せざるを得ない状況へと少しずつ ーしかし確実にー 変容していったことである。これら危機意識はやがて平田派の国学者(その多くは篤胤の私淑((1)))や水戸学と結束し、その結果それ迄の藩主体の狭窄した領域での思弁から脱却し、新たに「ナショナル」とでもいうべき超藩的な未知の思想領域が生じて、やがて迎える倒幕・維新という胎動を経て新政府の設立という彼等の理想的新世界を創造するに至ったのである。
 本稿は、幕末の長州藩を代表する尊攘思想家として嘉永年間から安政期の吉田松陰を採り上げ、安政3年8月、宇都宮黙霖との論争の末、彼の思想の機軸が水戸学から国学へと大きく転換したと考え、その根拠に『野山獄読書記』に見える多数の国学・神道系の書物に注目しつつ、その上で彼の尊攘思想に爾後(じご)如何なる変化が生じたかを明示することを目的とする。これは、従来松陰の尊攘論が後期水戸学によるものと解釈されてきたことを、国学的・神道的思想による展開(転換)という別の角度から一つの考察を加えてみることにより、これまでとは違った思想解釈を導くことに付与することになるであろう。
 
一 水戸学の思想的影響
 思想家としての吉田松陰は、朱子学・陽明学・水戸学などの学問を纒纒として包含し、幕末の国事多難な時期にあって、まさに万巻の書を読破してあらゆる学問の吸収とその実践において自らの確固とした尊攘論を展開するに至った。
 水戸学とは、水戸第二代藩主光圀の頃、『大日本史』編纂事業に従事した安積澹泊・栗山潜鋒・三宅観瀾らを中心として主に紀伝の編纂に重点を置いた歴史思想の前期と、寛政から化政期にかけて藤田幽谷を唱道者として第九代藩主斉昭によって藩政改革遂行の途次に形成され、会沢正志斎・藤田東湖らの思想により展開して、尊王論や国体論を現実的な政治思想と結びつけて国家として形象化論とした後期とに分けられるが、ここでいう水戸学とは後期を示す。
 松陰が後期水戸学から強い影響を受けていたことは人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)するところである。既に嘉永3年(1850)の平戸遊行時に『新論』を見ていた(未だ読んでいたとは言えない)松陰は、翌4年(1851)12月19日、東北遊行の途次に約一か月間水戸を訪問し、ここで『新論』の著者で水戸学の泰斗会沢正志斎、豊田彦二郎らと対面する。この時の水戸の人々の様子を『東北遊日記 』に次のように記している。
 「水府の風、他邦の人に接するに款待甚だ渥く、歎然として欣びを交へ、心胸を吐露して隠匿する所なし。會々談論の聴くべきものあれば、必ず筆を把りて之れを記す。是れ其の天下の事に通じ、天下の力を得る所以か((2))。」
 この様に、当時の水戸人の気風を感心している。会沢とは水戸滞在中延べ六回に亘り会談することになるのであるが、会沢ら水戸人から快い歓待を受けた松陰は、続いて
 「客冬水府に遊ぶや、首めて会沢、豊田の諸子に踵りて、其の語る所を聴き、輙(すなわ)ち嘆じて曰く、「身皇国に生まれて、皇国の皇国たる所以を知らざれば、何を以てか天地に立たん」と。帰るや急に六国史を取りて之れを読む。古聖天子蛮夷を懾服(しょうふく)するの雄略を観る毎に、又嘆じて曰く、「是れ固に皇国の皇国たる所以なり」と。必ず抄出して以て考察に便にす、鹵芥の甚だしきと雖も、亦已(すで)に一週を卒ふ((3))。
と大いなる茂樹を受けたことを表している。つまり松陰は「古聖天子蛮夷を懾服(しょうふく)するの雄略」のこそが「皇国の皇国たる所以」との認識を水戸学との邂逅(かいこう)によって得、「未だ及ぶに暇あらず」として触れていなかった『日本書紀』、『続日本書紀』、『令義解』などといった広義での国史を渉猟し始めたのである。この認識こそ松陰に「日本」という超藩的国家意識を与え、長州藩兵学師範としての基本的、そして普遍的視座が、「長州藩を護る」という一地方意識から「皇国を護る」といったように自己認識が大きく変容したのである。このように、彼が思想的に目覚ましく活眼し、新たな認識を得たことは、水戸出立に際し兄梅太郎へ宛てた手紙に「水府の遊歴は大分益を得候様覚え申し候((4))」。と送り、また友人来原良蔵へ宛てた手紙にも「僕水府の遊学頗る益あるを覚ゆ((5))」と書いているところからもこの時の水戸訪問は、松陰にとり大いに友益であったと自覚していた事が判る。
 尚、松陰はこの水戸訪問時、同藩で実行中の「自葬祭式」(葬儀を仏式で行わず、神道式で行う)に大いに共鳴し、書写して「里民に論する檄」(その理由書き)を添えて萩の友人に送っていることも、彼のその時の神道への関心を示す一つであろう。後に、地元長州藩でもこの自葬祭式が序々に広まりを見せるのである。
 
二 松陰の思想的転換
 しかし、松陰はいつまでも水戸学の影響下に拘泥(こうでい)されていたわけではなかった。では彼の水戸学離れが、いつ頃から生じてきたのかを検討してみたい。
 広瀬豊氏は、「安政元年十二月五日、兄からの書簡に『会沢の新論、古賀の海防憶測・斎藤の士道要論の如きは瑣々たる小冊子のみ、然れども人心を冥々に鼓舞すること豈小々ならんや』とあつたに対し、松陰は『紙上の空言、書生の誇る所、烈士の恥づる所なり』との酷評(こくひょう)を以て答えてゐる。即ち学者の抽象論で、自ら実行しやうともしない無責任の放言だというのである。」(『吉田松陰の研究』、マツノ書店復刻版、101〜102頁)と松陰の会沢離れを指摘しているが
しかしそのおよそ半月前の11月13日、兄へ会沢の著した『廸彜編』と『草偃和言』を獄中から催促し、さらに二27日書簡にも、「草偃和言・廸彜編一見仕り度候。此の書玉丈入如何御評し成され候や。」と書き送り、12月4日に漸く差し入れられたこれに「到手恭順」と感謝している点からして、この時点での松陰が会沢(水戸学)に対して強ち否定的とはいえないのである。
 安政3年(1856)11月、松陰は極めて有名な自己批判の一文を友人の赤川淡水に宛てて送っている。
 「天朝を憂へ、因って遂に天朝を憂ふる者あり。余幼にして家学を奉じ、兵法を講じ、夷狄は国患にして憤らざるべからずを知れり。爾後偏く夷狄の横なる所以を考へ、国家の衰へし所以を知り、遂に天朝の深憂、一朝一夕の故に非ざるを知れり。然れども其の孰れか本、孰れか末なるは、未だ自ら信ずる能はざりき。向に八月の間、一友に啓発せられて、矍然として始めて悟れり。従前天朝を憂へしは、並夷狄に憤をなして見を起こせり。本末既に錯れり、真に天朝を憂ふるに非ざりしなり。今貴文先づ字内の状形を掲ぐ、其の意吾が八月の前と大異なきなり((6))。」
 文中の「一友」とはいうまでもなく勤皇僧黙霖である。この自己批判文にあるように、これまでの彼は「夷狄を憤り因って遂に天朝を憂ふる者」であり、一人の長州藩兵学師範という立場で尊王の立場に立っており、そのことを黙霖との書簡の往復(論争)により「矍然と」認識して酷く反省し、「本末既に錯」っていたことを「始めて悟」ったことにより爾後、尊王の立場から攘夷を論ずる目覚めたのである。このときから、彼の尊攘思想は究極に行き着くところまで到達したのである。そこで、これ以後の松陰の思想を尊王論から見てみることとする。
 
三 『野山獄読書記』にみる神道への傾斜
 『野山獄読書記』(以下『読書記』)は、松陰がペルリの黒船に乗船しようとした罪により、萩の野山獄に投獄された直後からのものである。投獄された松陰であるが、多少の不自由を除けばそこは彼にとって最適な学問の場であり、その生涯において最も多くの読書を行った時期でもあった。
 『読書記』は、安政元年(1854)10月24日の投獄から安政4年(1857)11月までに読了した書籍1461冊の記載を中心に記録されているいわば目録である。ただし、彼は一年二ヶ月程で出獄しているので、ここに記録されている読書の全てが獄中であったというわけではなく、この帳簿を出獄後も暫く使用していたため、野山獄獄中のみの読了書に限定されていないことを断っておく。
 『読書記』において松陰の神道傾斜に言及したものはこれまで殆どない。しかし、生涯において最も読書に打ち込んだこの約三年間において彼の知的営為の過程を端的に示す本書は、当時の彼の関心領域を顕現するのみならず、後の思想形成に大きな役割を及ぼしたものと推察される。従って本節では『読書記』記載中、尊王論に関係する書籍を抽出し、その中からこれまで混同されがちであった水戸学に関する書籍と、国学・神道に関する書籍を分別し、その上で彼の読書傾向の変遷から「水戸学的尊王論」と「国学的尊王論」をそれぞれ分けて考えてみたい。
       野山獄読書記
 
水戸学関係書
草偃和言 会沢正志斎 安政元年12月 1
廸彜編  会沢正志斎 安政元年12月 1
水府公福山侯に与へて海防を論ずる書付 徳川斉昭 安政2年3月 2
常陸帯四冊 藤田東湖 安政2年9月 4
常陸帯四冊 藤田東湖 安政2年10月 2
弘道館述義 藤田東湖 安政2年10月 1
新論 会沢正志斎 安政3年1月 1
下学邇言巻一 会沢正志斎 安政3年3月 1
弘道館述義 藤田東湖 安政3年3月 1
豈好弁 会沢正志斎 安政3年4月 1
下学邇言巻三 会沢正志斎 安政3年6月 1
下学邇言巻二 会沢正志斎 安政3年6月 1
下学邇言 会沢正志斎 安政3年7月 1
幽谷上書 藤田幽谷 安政3年10月 1
弘道館述義 藤田東湖 安政3年10月 1
藤田東湖詩 藤田東湖 安政4年5月 1
 
水戸学的尊王論書
靖献遺言 浅見絅斎 安政2年1月 2
保健大記打聞 谷重遠 安政2年8月 3
柳子新論(上下)山縣大弐 安政3年9月
柳子新論(上下)山縣大弐 安政310月
中朝事実 山鹿素行 安政4年4月 2
 
国学関係書
伊勢浜荻 秋本安民 安政3年7月 1
古今妖魅考 平田篤胤 安政3年9月 2
古今妖魅考 平田篤胤 安政3年10月 1
道之一言 六人部是香 安政3年10月 1
古事記伝巻一〜巻九 本居宣長 安政3年11月 9
古事記伝巻十〜巻十五 本居宣長 安政3年12月 6
国号考 本居宣長 安政3年12月 1
古事記伝巻十六〜巻十七 本居宣長 安政3年12月 1
敏鎌 中島広足 安政4年1月 1
直養漫筆 西田直養 安政4年3月 4
後言三冊並評一冊 小説家大人 安政4年3月 4
嚶々筆語初篇 野之口隆正 安政4年4月 1
玉だすき 平田篤胤 安政4年4月 1
帆史備考 西田直養 安政4年4月 1
嚶々筆語初篇 野之口隆正 安政4年5月 1
アメツチヒ哥并解 野之口隆正 安政4年5月 1
仮字本末 四冊 伴信友 安政四年閏5月 2
仮字本末 二冊 伴信友 安政四年6月 2
神字日文伝 平田篤胤 安政4年6月 1
和字大観鈔 釈文雄 安政4年6月 2
玉鋒百首解 本居大平 安政4年6月 2
義士流芳 伴信友 安政4年7月 1
出定笑語 平田篤胤 安政4年7月 4
国意考 賀茂真淵 安政4年8月 1
 
神道関係書
神代巻(日本書紀)舎人親王 安政3年8月 2
古語拾遺 斎部広成 安政3年9月 1
松崎天神鎮座考上下 弘正方 安政3年10月 2
大扶桑国考上下 平田篤胤 安政4年6月 2
※原文にある読書所用期間・再読理由等は省略する
 
 凡そ以上であるが、この読書傾向から読みとれる事は、前述安政3年8月における僧黙霖との論争による「思想的転換」以後、水戸学関係書物の読書が明らかに減少し、代わって国学・神道関係の読書が急激に増加していることである。この内で「転換」以前に松陰が読んでいた国学・神道関係の書物は僅かに、『伊勢浜荻』、『日本書紀』神代巻だけであることを勘案すると、この増加は極めて顕著であるといえよう。また「水戸学的尊王論」書物中、『柳子新論』は、黙霖が松陰に貸し出したものであり、『中朝事実』は安政三年夏頃から始めた山鹿素行の著作蒐集の一つと考えるべきであり、「転換」以前に読まれた同様書物とは趣が異なると考えるべきとすると、彼の関心は水戸学から次第に乖離していくことを予感させるものである。
 尤もこれら読書の傾向だけを根拠にして、松陰が国学・神道から多大な思想的影響を受容していたと判断することは早計であろう。しかし、黙霖との論争後に、彼にある種の敬服の念を抱いてから、序々に水戸学の矛盾と限界に気付き始め、更にこの『読書記』に記される読書変遷(志向)を検討していくことにより、彼の関心が国学へと推移していく様を披瀝する大きな裏付けとなろう。だが、これにより松陰が本居宣長や平田篤胤とい国学者の思想を完全に受容したとは考えられず、宣長思想った
 
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防府松陰研究会の歩み
  ―松陰の教えの中に 生き方・学問のあり方を求めて ―
                      会長 小 川 善 博
 
一、防府松陰研究会の発足
 防府松陰研究会の前身は、昭和42年2月27日に遡る。松陰研究にご造詣の深い河村太市先生(現山口県教育会会長・松風会理事)を敬慕しご指導を受けて今日に至っている。
 初期の読書会では、バートランド・ラッセル著「教育論」などを輪読していたが、昭和48年頃から松陰研究に入った。当時、玉川大学出版教育宝典「山鹿素行・吉田松陰集」講孟余話をテキストにしていた。 
 本会を、さらに発展させるべく意図し、昭和62年6月12日、新しく再出発し、同好の士が集まり、松陰先生の人間観・教育観・人生観に学び、自らの生き方に資すると共に、松陰精神の啓発普及に努めようと話し合った。毎月第三金曜日を定例会として今日まで継続している。
 
二、防府松陰研究会の活動
1、定例会について
  現会員は、24名である。 毎月一回定例会を開催し10名前後の参加者で継続されている。
 定例会においては輪読と研究、テキストを会員が相互に読んで、河村太市先生の講義
を受け、座談会に入り、感想や教育に対する話し合いをしている。
 輪読のテキストは、現在新刊「脚注・解説 吉田松陰撰集」を使用している。現在、第五章「野山再入獄」岡部富太郎宛書簡まで読み進めている。
 
2、座談会の充実
 座談会は、これまで自然な形で行われてきたが、昨年九月の会から、事前に提案者を決め、自由な立場で資料を用意して開催するように充実した。
 河村太市先生が、平素松陰先生の「実学」「時務」について話をされており、座談会もその精神を生かし進めていきたいと思っている。
 一年間経過し 、会員それぞれの個性を発揮し多様な話題が提供され、楽しく視野を広め、いろいろな面に関心を深めることができていると思う。
 参考にこれまで提案された話題を挙げてみることにする。
・ 9月  
「幼児期の家庭教育について」
・ 10月
「環境教育について」
・11月
「老人問題について考える」
・12月
「益田弾正と育英館について」
・ 2月
「詩吟にみる吉田松陰」
・ 4月
「備中高松‐山田方谷をたずねて」
・ 5月
「羽賀台大操練について」
・ 6月
「詩吟村塾の壁に留題す」
・ 7月
「松陰先生の夢枕談」
・ 9月
「松陰の詩碑と句碑めぐり」
 
3、機関誌「松韻」の発刊
 会員の歩みや研究をまとめる機関誌の発刊を企図し、誌名を「松韻」とした。「松韻」とは、松声、松風の音、あるいは松籟を意味するが、その音は、「松陰」に通じている。私たちは、これを誌名とすることによって、吉田松陰の行動とその遺文に学ぼうとする気構えを表明しようとしたものである。
 これまで「松韻」第三号まで発刊し、本年度中に第四号を計画している。 
 
4、山口県教育会防府支部活動への協力
「松陰に親しむ会」・「松陰歩行大会」には、共催として協力している。
 
三、松陰の足跡を求めて 
   現地視察旅行
(大畠・柳井・上関)の実施
・平成13年8月18日(土)
・集合 防府市佐波公民館 
・9時出発
・行動の計画
・10時40分  
 大畠町「月性展示館」到着 見学
・11時50分
 柳井市「克己堂の門」阿月小学校構内
・12時10分
○昼食 上関町
  室津(尾熊毛) 「漁宴」
・13時から
○上関町の史跡巡り
  案内 議会事務局
 (かみのせき郷土史学習
   にんじゃ隊事務局長)
       安田和幸先生
上関町教育委員会社会教育課      井上美登里先生
    ・四階楼
    ・高札場跡
    ・松陰詩碑
    ・肥後屋跡
(休憩)上関町公民館にて手作りの茶菓をいただく。  
・15時 上関を出発、大和町に向かう。
・14時50分 
○大和町伊藤公記念館 見学
    ・記念館
    ・資料館
    ・生家
・16時30分 帰路に就く。
・17時40分 佐波公民館 帰着解散
 
四、おわりに
 会員からの声で「松陰の足跡を訪ねる会」が実現した。 
 当日は、夏休みの暑い日であったが、上関町教育委員会社会教育課のご厚意で資料の送付、当日の案内、ご指導と心温まるもてなしなどが、いつまでも思い出として心に残っている。 
 今後も「防府松陰研究会」は、会員の温かいふれ合いの中で、実学的な立場を踏まえながら、教育のあり方、人間の生き方求めて輪読会を継続し松陰研究を続けていきたいと思う。
 
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   玖村敏雄先生私家版『吉田松陰全集』を寄贈
 昭和11年1月13日日に発行された山口県教育会編纂・岩波書店発行『吉田松陰全集』の編集委員の一人である玖村敏雄先生の私家版がこのほど(財)松風会へ寄贈された。
 編集の途中で、岩波書店から適宜送付されてきた『全集』の最終校を、玖村先生が広島市内の製本屋に依頼して成ったものである。したがって外装は市販のものと異なるが、内容は全く市販本と同一である。
 玖村先生は、昭和35年山口大学を定年退職され、暫く山口市新橋に住んでおられたが、宇部市に転居されることになった。その際の引っ越しの手伝いに上がっていた河村太市氏(山口県教育会会長・松風会理事)にこの私家版『吉田松陰全集』が贈与された。そのとき第二巻、第七巻の二巻は、誰かに貸したまま返っておらず欠けていた。河村氏は古本屋に当たり、数年かけて欠を補われた。従って二巻は市販本である。
 この『吉田松陰全集』が玖村先生の私家版で特異なものだということで、平成15年6月10日、河村氏から松風会が寄贈を受けた。
 河村先生にはこの場をかりて厚くお礼を申し上げます。