飛 耳 長 目   

 
尚 友
 昭和36年6月に松風寮の寮歌・寮旗が制定され、学生組織として「尚友(しょうゆう)」が決定された。また、寮誌「尚友」が刊行された。
 この学生組織「尚友」の言葉の由来が書かれているものを見ることは出来ないが、孟子の万章上8章によるものと考えられる。
 「孟子万章(ばんしょう)に謂(いた)りて曰く、一郷(いっきょう)の善士(ぜんし、一村里の勝れた人物)はすなわち一郷の善士を友とし、一国の善士(国で勝れた人物)はすなわち一国の善士を友とし、天下の善士はすなわち天下の善士を友とす。天下の善士を友とするを以て、未だ足らずとなし、又古(いにしえ)の人を尚論す(しょうろん、古にさかのぼって古人を評論する)。其の詩を誦(しょう)し、其の書を読むも、其の人を知らずして可ならんや。是(こ)の以(ゆえ)に其の世を論ず。是れ尚友(古にさかのぼって古人を友とすること)なり。」(『孟子』巻第十万章、章句八)
 
【現代語訳】「孟子が万章に向かって言われた。〔いったい、友達というものは類を以て集まるもので〕、一つの郷内(むらざと)で〔才能〕の勝れた人物は、やはり同じ郷内での勝れた人物を友達とするし、一国での勝れた人物は、やはり同じ国内での勝れた人物を友とするし、さらにまた天下での勝れた人物は、やはり天下での勝れた人物を友達とする〔というように、それぞれその器量(きりょう)に随(したが)って友達とするところが違う〕ものだ。
 
 ところで、天下での勝れた人物を友達としても、なおかつ満足できなければ、さらに昔にさかのぼって、古の聖人や賢人を論じて友達とするものだ。だが、いかにそれら古人の作った詩を吟じ、その著した書物を読んでも、その作者の人物を知らないでいったいよいものだろうか。だから、さらに進んでその古人の活動した時代を論究していかねばならぬ。これがつまり『尚友』、すなわち『さかのぼって古人を友達とする』ということなのだ。」(『孟子』小林勝人訳注、岩波文庫)
 
 松陰は、「此の章汎(ひろ)く友道を論ず。其の帰宿する所は尚友の上にあり。一郷の善士は斯に一郷の善士を友とし、一国の善士は斯に一国の善士を友とし、天下の善士は斯に天下の善士を友とすと言ふは、特に其の才徳の高下に随って、交はる所の広狭あるの大略を言ふのみ。一郷の善士は必ず一国の善士を友とすること勿れ、一国の善士は必ず天下の善士を友とする勿れと言ふには非ず。(後略)」(『吉田松陰全集』第3巻p232「講孟余話」万章上第8章)
 
現代語訳】「この章は、ひろく「友道」、友人の道について論じたものであるが、その結論は「尚友」、古人を友とするということにある。本文では、その人物の才能・徳望の高い低いによって、交わる友人の範囲にも広い狭いの差があることを言っただけであり、村における勝れた人物は絶対に国における勝れた人物を友とすること勿、国における勝れた人物は天下の勝れた人物を友とするなというのではない。また天下の勝れた人物を友としてもなお足らず、遡(さかのぼ)って古人の詩を唱い、古人の書を読み、さらに古人の活躍した時代までも論究することこそ、孟子の学則なのである。」と。
 
 当時の松風寮の指導的立場にあった方々が、寮生同士切磋琢磨し、更には大学で学び、更には書籍に親しむ寮生を望んでいたものであろう。
 
 小野常務理事の話
 財団法人松風会が設立された昭和49年の「尚友」11号に、当時の常務理事、小野竹市氏が次の文を寄せている。
 「これまで奨学施設として山口県教育会に所属していた松風寮はこの度、財団法人松風会の設立によって、その事業の一つとなったのである。その経緯を述べると、役員会において審議の結果、松風会の寄附行為案ができ、代表者二木謙吾名義で設立の認可を申請したところ、昨年3月20日付けをもって民法第34条の規定による認可の指令を受けた。引き続き土地・建物・什器・図書室の財産の法務局への登記を完了し発足をみたのである。その設立の趣旨は大要次の通りで昭和47年3月末日付で県下へ呼びかけた。
 
 われわれは昭和31年11月山口市において県下の有識者千余名の会合を得て昭和34年の松陰先生百年祭を迎えるにあたり、先生の遺徳を顕彰し、この機会に記念事業を遂行して、今後の日本国民の奮起を促すため、松陰先生百年祭記念事業推進会(会長二木謙吾)を設立し、以来微力を尽くして募金並びに事業の遂行に当たったが県内外の絶大なご協力を得て、高松宮殿下ご臨席のもと盛大な百年祭を挙行し、その他各種の記念事業を完遂したのであって、就中(なかんずく)松風寮の建設運営に主力を注ぎ、今日まで満13年間、常時満員で運営を続け、在寮した大学生は460余名に達し、既に就職第一線に、また学問探究のため大学院に進学、それぞれ活躍していることは、まことに同慶に耐えないところである。
 
 しかるところ、時代の推移によって、経済面の高度の成長をとげたのに返し、精神面をおろそかにする風潮と、今日の学校教育の実情、特に学園紛争の現状をみるとき、洵(まこと)に憂慮に耐えないものがある。
 
 よって、われわれは標記のような会を創設し、今日まで努力してきた松陰先生百年祭記念事業推進会の解散の後を受け、残された財産の譲渡を得て、同推進会の遂行し得なかった事業の完遂は申すまでもなく、更に県内外各位の協力を得て漸次、松陰精神の普及振興に関する諸事業を遂行し、正に危機にある日本の教育にまた混迷の現社会情勢に対処し、名誉ある防長の伝統を継承しようとするもので、幸いに同憂の方々の御協賛を得たのである。
 
 ちなみにこの法人の目的とするところは、松陰先生を崇敬し、松陰精神の普及振興を図り併せてこれを現代に生かすことであってその目的を達するため次の事業を行う。
1 深く松陰先生の事績及び精神を研究する。
2 講演会・講習会・研究会並びにこれに類する諸会を開催する。
3 機関誌・リーフレットを刊行する。
4 本会と同種の性格をもつ会との連携または助成を行う。
5 その他目的を達するため適切な事業をおこなう」
(「尚 友」11号)
 
 松永常務理事の話
 松風寮解散を前にして最後の発刊となった「尚友」17号から、当時の松永祥輔常務理事(後理事長)の文を紹介する。
 
 「逝くものは斯(かく)くの如きか、昼夜を舎(お)かず」と。これは孔子が川岸にたっての詠嘆で大変有名な言葉であるが、文意は人間が川の流れのように、どんどん年をとって行くことを嘆いたものと見るのが通説である。
 
 さて松風会は、志士であり、思想家であり、また教育者として一頭地を抜いた吉田松陰先生殉節百年(1959)を記念して昭和36年(1961)5月に設立されている。その設立目的は松陰先生を崇敬し松陰精神の普及振興を図り、併せてこれを現代に生かすに在る。その目的達成のための事業の一つに大学生寮を建築し経営して今日に及んでいる。いわば松風寮は諸君が松陰精神を体得して国家社会の有用な人材となることを期待しての修養道場ということができる。そして松風寮へ今日まで入寮した人数は600人に及んでいる。
 
 開設当時は文理学部、教育学部、経済学部及び教養部がすべて亀山周辺で寮より至近距離にあったし、また閑静で勉学に好適な環境にあったので常に満室の盛況にあった。昭和48年1月に経済学部が平川へ移転したのを最後として寮と大学との距離は5キロと遠くになった。その上最近は平川地区に寮生向きの貸部屋が多数出来て、しかも室内も広く便利に設(しつら)えてあるので学生諸君がその方を指向するすることは誠に自然の成り行きと言わねばならない。当松風寮も建設20年を経てかなり古くさい感がしているので早晩抜本的対策を講ずる必要性を痛感していた。そこへ市道建設のため来春3月までに立ち退きを要することになった。つまり松風寮はその道路計画にスッポリ入っているからである。
 
 これに対し如何(いか)に対応するかについて今春以来随分理事会で検討をしてきた。ある時は非公式に代替地を物色もしてみた。然し移転して今後寮経営を持続することは不可能な状態になった。昭和57年3月を以て松風寮は姿を消すことになる。設立20周年が松風寮最後の年になることは経営の責に当たる者として残念至極である。時の流れと申すべきか。流れの方角が変われば別離もまたやむを得ない次第である。
 
 折角お互いに信頼と縁で結ばれた寮生の諸君とお別れすることは何としても耐え難い思いがする。会者定離(えしゃじょうり)は世の常、処世上私見を述べておきたい。即ち人生という道を急がず着実に前進することである。我々が生存している社会の広がりは将(まさ)に世界社会である。それだけに広い視野に立って自己を見つめることが肝要である。学生諸君は知識は人並み以上であるが、その知識を自在に使いこなすところまで行かねば知識とはいえない。即ち体験の尊さを忘れてはならない。体験は知識を確実にする手近な方法である。
 
 知識のみを重視すると批判力は進むが実践力は育たない。実践には苦痛が伴う。今日の通弊は多くの人々が安楽を求める心の持ち主であることである。そして現代社会は決して安楽に過ごし得る社会ではない。常に大きな問題課題がつきまとっている。それを乗り越える努力が要るが、それが実は人間にとっても非常に大切なものと思う。
 
 今一つは一攫千金を得るようなことは断固排除して欲しい。高い階段を一挙に登って行くと同じで躓(つまず)けば怪我をして、しかも振り出しへ放り出されることになる。今日見る新聞紙上の忌まわしい出来事は殆どがそれである。他人の幸、不孝を省みず、自己のみの利を求めて行くその行き着く先は全てを失うことになる。自由社会に自他共存する所に成り立つ所以(ゆえん)を忘れないで欲しい。そしてまた、特に青春時代を大切にして徒過しないように望んでやまない。」
 
 寮 生
 寮で生活した尚友の仲間は、現在50歳〜70歳となっている。過日寮生であった永池克明氏(39、12〜42、3寮生、経済学部。現在、久留米大学商学部教授)から『さようなら九州大学』(九州大学総務部総務課広報室発行、A4判p40,平成18年度で九州大学を定年退職教職員の特別寄稿をまとめた冊子)を御恵贈いただいた。永池氏の寄稿文の一部を紹介する。
 
 「長崎県に生まれ、高校時代までは長崎県(一部福岡県)。大学を卒業して総合電機メーカーに入社し36年間勤務。主として経営企画畑を歩き、本社(東京)を本拠に欧州、米国に留学及び駐在後、アジア、中国の地域戦略、事業戦略企画立案業務、本社経営企画部、経営トップ特別補佐を歴任。2003年4月、九州にUターンして九州大学大学院経済学府産業マネジメント専攻(ビジネススクール)設立と同時に教授として赴任し、アジアビジネス論、中国ビジネス論、学部で国際ビジネスを担当しました。また2005年度には新設の九州大学アジア総合政策センター教授(複旦)を兼務しました。
 
 民間から59歳で九大に赴任しましたので(定年(63歳)まで)、わずか4年間という短い期間でしたが、ビジネススクールの創設(国立では一橋、神戸に次ぎ3番目)からの草創期を同僚教員の方々や学生たちと一緒に全力で造り上げてきた、という実感があり、やりがいのある仕事に参加できたことを大変ほこりに思うと同時にうれしく思っています。現在、受験倍率も全国的に見てもトップクラスの座を維持しています。学生は90名、「アジア重視」、「技術経営(MOT)」を2枚看板にしています。
 
 私の教育の理想は、山口県で大学時代を送ったこともあり、吉田松陰の松下村塾です。学生の個性や長所を発見しそれを伸ばすこと、実践で役立つ問題解決型の教育。それは教員をしていた父母(故人)の教育理念を踏襲したものでもありました。(後略)」
 
寮誌「尚友」は、昭和36年に1号を発刊し、昭和56年17号(最終号)で終わりとなった。(現在松風会に11・15・16・17号を保存)翌年昭和57年1月に送別会があり、寮廃止となり、20年間の活動を終えた
 昭和58年新装なった山口県教育会館に事務所を移した。 その後今日まで、吉田松陰先生を崇敬し、松陰精神の普及振興をはかり、これを現代に生かすことを目的に事業を行っている。
 平成23年度は、法の改正に伴う新たな公益法人認定へ向けて、松風寮開設から50年目の大きな節目の年となる。
(文責:松風会事務局長 室  謙司)

松陰研修塾基礎コース講義要旨
 吉田松陰の生涯
                          松風会理事 松田輝夫
はじめに
 松陰の生涯は「志を立て、志に生き、志を伝えた」生涯であった。松陰の志は、誇りある人間であり、日本人であることを追求し、貫くことであった。
 
1 生立ち・幼児時代 (天保 元年(1830)〜5年、1〜5歳)
(1)天保元年8月4日
 萩藩士杉百合之助(すぎゆりのすけ)の次男として、萩城下町の東郊松本護国山の麓に誕生。幼名虎之助。 杉家の家禄は26石で貧しい半士半農の生活。
 家族は父母・祖母・叔父2人・叔母・兄。その後妹4人・弟1人。
 杉家の家風は 「忠厚勤倹」(「宗族(そうぞく)に示す書」安政6年(1859)5月、30歳)
 「杉の家法は美事」(「妹千代宛」安政元年(1853)12月、25歳)。
 父の教え 日常生活の中で、基礎学習として儒教の素読(そどく)。尊皇精神の口伝(くでん)(「奉別家大人詩」安政6年(5月、30歳)。
(2)天保5年(1834)5歳  
 叔父吉田大助の(家録57石)仮養子(かりようし)となる。
 
2 兵学修業・師範時代(天保6年(1835)〜 嘉永2年(1849)、6〜20歳)
(1)天保6年6歳
 吉田家(山鹿流(やまがりゅう)兵学師範の家)を継(つ)ぎ(叔父病死)、幼名大次郎(だいじろう)とする。杉家に同居。幼少につき、藩は玉木文之進(たまきぶんのしん)外数名を家学教授の代理を命じた。兵学修業は 主に叔父玉木文之進に学ぶ。
 
2)天保10年(1839)10
 兵学師範見習(しはんみならい)として明倫館(めいりんかん)に出勤。藩は玉木文之進外数名を後見人(こうけんにん)に命じた。
 叔父玉木文之進松下村塾を開く。松陰は塾生となる(天保13年(1842)13歳)。
 後見人林真人(はやしまひと)宅て寄宿修学中、火災に会い、本・衣服焼く(弘化3年(1846)17歳。
 後見人山田宇右衛門(うえもん)は、藩士山田亦介(またすけ)を紹介し、長沼流(ながぬまりゅう)兵学と共に世界の大勢と外国の脅威を学ばせ世界への視野を開いた(弘化2(1845)〜3年、1617歳)。 
(3)天保11年(1840)11
 親試(しんし)(御前講義(ごぜんこうぎ)、藩主毛利敬親(たかちか)へ兵学の講義)で藩主に高く評価されお褒(ほ)めの言葉を賜(たま)う。その時の父の言葉「吾が児兵家の後なり、区々(くく)たる講説何ぞ誇るにたらんや」と戒(いまし)めている。
 
 次回親試には褒美として「七書直解(しちしょちょっかい)」を賜う(弘化元年(1844)15歳)。その後も親試そして講義参観などが行われた。(「上覧(じょうらん)御賞美」)
 嘉永3年親試の「武教全書守城篇」に藩主大いに感動し、松陰から山鹿流兵学の皆伝を受ける(嘉永4年(1851)22歳、敬親公33歳)。
 
(4)嘉永元年(1848)19
 山鹿流兵学の独立師範となる。清水口(しみずぐち)に転居。
 自立への語録として「夫れ志の在る所、気も亦従う」(「松村文祥を送る序」・弘化3年 (1845)17歳)。
 「自(みずか)ら以って俗輩(ぞくはい)と同じからずと為すは非(ひ)なり。当(まさ)に俗輩と同じかるべからずと為すは是なり。蓋(けだ)し傲慢(ごうまん)と奮激(ふんげき)との分なり」(「寡欲録(かよくろく)」・弘化4年(1846)18歳)。
 「講習討論の節、勝つ事を好むの心を持し、人の議論を排斥し、私の意見を遂げ候儀、深く相誡(いまし)むべし」(「兵学寮掟書條々(おきてしょじょうじょう)」・嘉永元年(1848)19歳)。
 「兵を学ぶ者は経(けい)を治めざるべからず。何となれば、(兵は)凶器なり。逆徳なり」(未焚稿(みふんこう)「学を論ずる一則」・嘉永4年前(1851前)22歳前)。
 「明倫館御再興に付き気附書」上申。(嘉永元年、19歳)。明倫館新築成る。
 北浦海岸巡視。(「廻浦紀略(かいほきりゃく)」嘉永2年(1849)20歳)。
 
3 遊学時代 (嘉永3年(1850)〜 安政元年(1854)2125 歳)約4年
(1)九州遊学(嘉永3年、21歳、「西遊(せいゆう)日記」)。
 「心はもと活(い)きたり、活きたるものには必ず機あり、機なるものは蝕(しょく)に従ひて発し、感に遇(あ)ひて動く。発動の機は周遊の益なり」(「西遊日記」序・嘉永3年、21歳)。
 「地を離れて人なく、人を離れて事なし、故に人事を論ぜんと欲せば、先ず地理を観よ」(「幽囚録」金子重輔(かねこしげのすけ)行状・安政元年(1854)25歳)
 外国船の観察、本による外国の学習。長崎県平戸の葉山佐内(さない)から儒教・兵学を学ぶ。病にて床に伏し、詩を素読する家族団欒の「夢を記す」(1025日)。
 
(2)第1回江戸遊学(嘉永4年(1851)22歳、「東遊日記」)
 藩の長老村田清風から送別詩が贈られた。(「送別詩とその礼状」)
村田清風為松陰所贈詩
 砲技に達せざれば以て兵を論ずる勿(なか)れ、孫呉(そんご)に通ぜられば以て砲を譚(たん)ずる勿れ。辛亥(しんがい)11月
(砲技は今日の急務で、これを知らないで兵を論ずることがあってはならない。しかし、孫子・呉子等兵の根本原理を明らかにとらえていなければ砲技も空しき未技である)
 学ぶことが多くあったが、松陰が満足できるような指導者には出会えなかった。しかし、心を許せる同志の出会いがあった。そして、国史に乏しい学力と、国防として外国船の脅威が課題となった。
 
(3)東北遊学(嘉永4年〜5年、2223、「東北遊日記」)第1回用猛
 北の守りの実態を視察するために、友人宮部鼎蔵(みやべていぞう)と出かける。水戸学で国史に開眼し、北方海防の課題を体感した。しかし、藩の過書(かしょ、旅行証)を持たずに出かけ、罰せられること(亡命罪)になる。帰萩、杉家清水口高洲家(たかすけ)寄寓(旧宅跡)亡命(浪人)となる。
 父の言葉「汝が素志遠大(そしえんだい)なり、一たび誤るも国に報ゆるは尚時あり、豈(あに)勤めざるべけんや」と諭す。
 
(4)第2回江戸遊学(嘉永6年(1853)24歳、「葵丑(きちゅう)遊歴日録」)
 藩主の許しで近畿地方を遊学し、特に文学を学び、江戸へ行く。ペリ―来航。「将及私言(しょうきゅうしげん」を藩主に出す。第2回用猛。
 佐久間象山(さくましょうざん)の教えに海外渡航の決意をする。
 
(5)長崎紀行 (嘉永6年(1853)24、「長崎紀行」) 
 露艦にて海外渡航をせんと長崎に急行するも、出航後で失敗。萩に立ち寄り江戸へ。
 
(6)下田踏海 (安政元年(1854)25歳、「幽囚録(ゆうしゅうろく)」・「回顧録(かいころく)」)
 ペリ―再来。金子重之助(しげのすけ)と下田踏海決行し失敗。江戸獄で罪をうけ帰萩し、松陰は野山獄、金子は岩倉獄(いわくらごく)に入れられる。第3回用猛
     
4 野山獄時代(安政元年〜2年、2526歳)1年2ヶ月
(1)再起の決意 家族の支え 
 父の書簡「過書はいかが相成り候やの事。用事之れあり候はば、廉書(かどがき、箇条書き)にして御申越しの事。詩作受取りの事」(安政元年1024日か、25歳)。
 兄からは入獄後毎日のように書簡と差し入れが続く(松陰宛書簡・往復書簡参照)家族の物心の絶大な支えに力強い再起ができた。
 
(2)再起の歩み 誇り在る人間として日本人として 
 下田踏海失敗の総括を「幽囚録」にまとめる(安政元年、25歳)。
 「二十一回猛士の説」を唱える。(安政元年、25歳)
 松陰のめざす人間像(志)を「士規七則(しきしちそく)」に示す(安政2年、3月、26歳)。
 囚人と共に獄を福堂と化す(「福堂策(ふくどうさく)」安政2年、26歳)。
 俳句の会・習字の会・「孟子」の講義など実践。女囚高須久(たかすひさ)との出会いあり。自己学力向上のための読書に全力を注ぐ。1年2ヶ月で6百余冊を読了抄録(しょうろく)する。
 論争で学ぶ。山県太華(やまがたたいか)と「講孟余話」・僧月性(げっしょう)・黙霖(もくりん)との交信。
 
5 幽室時代(安政2年〜4年、2628歳) 約2年
(1)父兄の申し出により「孟子」の講義を始める。
 家族親戚子弟が主体。野山獄で開始した講義が、丸1年後の6月13日に終了。この記録がまとめられ「講孟余話(こうもうよわ)」となる(安政2年12月〜安政3年6月・2627歳)。
 「講孟余話」には、「道は則ち高し、美し。約なり、近なり・・・.」に始まり、松陰が「孟子」を説きながら、日本人として今覚悟し、為すべきことは何かを求めてた松陰の主著である。性善説を基盤として、人生観・国家観をはじめ政治・教育・哲学・外交等松陰の思想の基調が述べられている。
 
(2)「武教全集」講義をはじめ、兵学門下生も参加。(安政3年(1856)27歳)
 近所の若者などが学びに来るようになる。
 「松下村塾記」を作成。
 松陰の尽力で、野山獄の囚人過半数放免される。
 
(3)松陰に学びに来る者が益々に増加する。(安政3年後半〜4年)
 松陰の協力者─外弟久保清太郎・野山獄出獄の富永有隣
 身分の低い烈婦登波(れっぷとわ)を讃え、その顕彰に努め、安政5年には平民となる。
 松本村の無頼(ぶらい)少年三生の善導や喫煙防止の実践活動に取り組む。
 
6 松下村塾時代(安政4(1857)〜5年、2829)1年1ヶ月
(1)松下村塾
 小屋を修補して「松下村塾」に充て開設。(安政4年11月5日、28歳)
 「学は、人たる所以(ゆえん)を学ぶなり。塾係(か)くるに村名を以てす。」
 「松下村塾記」では、先ず松本村の人間としての自覚を促し、松本村を起点として萩へ、萩から天下へと高揚し、さらに日本人としての自覚を高めようとした。今を生きる具体的な課題を究めつつ、それを志として貫き通す意欲ある人間を育てることをめざした。 具体的な課題としては、人として最も重きをおくことは「君臣の義」であり、国の在り方として大事なことは「華夷の弁(かいのべん)」であると述べている。
 
 そのために、「個性尊重の教育」・「心を通わせ共に励まし合う教育」の実践が強力に展開され、単なる知識としての学問でなく、時代につながる生きた学問の実践で塾生の魂を揺り動かした。
 村塾を塾生と共に増築(10畳半と土間)。(安政5年(1859)3月11日・29歳)
 この工事での、塾生たちの相交わり、相扶持し、相労役した活動は、松陰のめざす「心の通う教育」の実践となり、それが塾生の学習意欲を飛躍させた。(「諸生に示す」安政5年6月23日、29歳)
 
(2)尊皇攘夷の実践活動
 藩への上書「狂夫の言」(安政5年正月6日、29歳)
 米国の日米修好通商条約の強要の危機感への対応策を訴える。引き続き「対策一道」・「愚論」・「続愚論」等、徐々に具体的な方策を進言。これらは藩主も認められ、さらにはこの一部は孝明天皇乙夜覧に共せられた。この事は、松陰にとって大変な誇りとして大きい支えとなった。
 
 上書「大義を議す」(安政5年7月13日・29歳)幕府の日米修好通商条約についての違勅調印に対する上書である。諫幕から討幕やむなしに移行。
 幕府老中間部詮勝(まなべあきかつ)要撃(第4回用猛)を策し、同志17名血盟し決起を謀る(11月6日)。藩府は「学術不純にして人心を動揺す」として一室に厳囚し(1129日)、村塾は閉鎖となる。そして、遂に野山獄に投獄となる(1226日)。
 松陰は塾生たちに「松下陋村(ろうそん)と雖(いえど)も誓って神国の幹とならん」と書き残した。
 父の言葉「一時の屈(くつ)は万世の伸なり、繋獄(けいごく)何ぞ傷まん」と、別れのことばを告げた。
  
7 再獄時代 (安政5〜6年、2930) 5ヶ月
 松陰の老中間部要撃(ようげき)策は、塾生までが時期尚早(しょうそう)と諌(いさ)めた。松陰は「僕は忠義をする積り、諸友は功業をなす積(つも)り」と反発した。松陰は自分の誠意の成否を絶食で試みた(安政6年1月25)。父母・玉木叔父らの切々の訴え、さらに塾生たちの謹慎解除の朗報に絶食を中止。「母杉瀧より」書簡。
 その後、死を覚悟して尊皇攘夷策として伏見要駕(ふしみようが)などを計画するも失敗。草莽崛起(そうもうくっき)を唱え、死について自然説に辿りつく。
 
8 東  送 (安政6年、30)(第5回 用猛)
 安政6年5月, 東送(江戸送り)の命くだる(安政の大獄)25日東送。
 「至誠にして動かざるは未だ之れあらざるなり」松陰は、尊攘の大義を説き幕政転換を促す絶好の機会と考え、自分の信念の従い幕府の進むべき道を陳述した。しかし、老中間部要撃計画を自白し、幕府は死罪を下した。
 
9 殉  難(安政6年)
(1)「永訣(えいけつ)の書」10月20日
 「平生の学問浅薄(せんぱく)にして至誠天地を感覚すること出来申さず、非常の変に立ち到り申し候。嘸々(さぞさぞ)御愁傷(ごしゅうしょう)も遊ばさるべく拝察仕り候。親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん」と書き出された。死を前にして父母を始め家族にたいして、自分の誠の不足を責(せ)め、澄み切った人間の至情が綴られている。
 また「語諸友書」、「平生の心事具(つぶ)さに諸友に語り、復(ま)た遺欠なし。諸友蓋(けだ)し吾が志を知らん、為に我れを哀しむなかれ。・・・我れを知るは吾が志を張りて之れを大にするに如(し)かざるなり」と、している。
 
(2)「留魂録(りゅうこんろく)」10月25・26
 「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」に始まり、「義卿(ぎけい)三十、四時(しいじ)已(すで)に備(そな)はる、亦秀(ひい)で亦実る、其の秕(しいな)たると其の粟(ぞく)たると吾が知る所に非(あら)ず。若(も)し同志の士其の微衷(びちゅう)を憐み継紹(けいしょう)の人あらば、乃(すなわ)ち後来の種子未だ絶えず、自ら禾稼(かか)の有年(ゆうねん)に恥じざるなり。同志其れ是れを考思せよ」との願いが書き遺された。松陰殉難後、『留魂録』は塾生から塾生へと伝わり、やがて維新胎動(たいどう)の推進力となった。
     
(3)処 刑、10月27日
 松陰は評定所に呼び出されて死刑の判決を受け、伝馬町の獄で処刑された。松陰は「吾れ今国の為に死す、死して君臣に負(そむ)かず。悠々たり天地の事、鑑照(かんしょう)、明神(めいしん)にあり」と、朗々と誦(とな)えながら堂々たる生涯を終えた。享年30歳だった。
 
(4)父百合之助のことば
 松陰の死を知らされ、届けられた遺言を読み「嗟吁(ああ)、児一死君国に報(むく)いたり、真に其の平生(へいぜい)に負かず」と語ったが、これは生涯信頼し通した我が子への最後に捧げた別れのことばであった。
 松陰は変転する幕末において、儒学と兵学を学び、兵学者として誇りある人間であり、日本人であることを原点として、いかに生きるべきかを命がけで模索し、幾多の挫折を克服しながら、その志を貫き通した人であった。その志は塾生たちにより受け継がれ、倒幕そして明治維新を迎え、近代国家の成立へと導いた。
吉田松陰参考文献目録省略
 
松陰終焉の地を訪れて
 
 公用で上京する機会を得たので、松陰先生終焉の地を訪ねた。
 
伝馬町牢屋敷跡
 安政6年(1859)10月27日、吉田松陰が処刑された伝馬町牢獄処刑場跡の一角に私は立っている。東京メトロ日比谷線小伝馬町駅を出て左へ曲がり50m行った所である。折からの雨で昼というのにどんよりと暗い。
 
 ここには大安楽寺、身延別院、村雲別院それに延命地蔵が建っている。
 「明治初年紀州高野山桜地院から出て麻生(あざぶ)市兵衛町(いちべえまち)の不動院の住職となった山科俊海(やましなしゅんかい)和尚は浅草方面への往還の途上、偶(たま)に伝馬町牢跡の草茫々(ぼうぼう)たる中に燐火(りんか)が燃えているのを見て、無数の無告の霊が鬼哭啾々(きこくしゅうしゅう、恐ろしい気がせまるようす)として寄る辺(よるべ)ない有様に感じ入り、維新の志士たちの菩提をも弔(とむら)わんと発起し明治8年から15年まで東京市内を勧進した。集まった金は穴倉に貯えたが、5千円に達したので、先ず半金で土地を買った。その頃、地価は一般は百円であったが、牢屋敷跡は不浄地の故、坪3円50銭であった。残り半金で寺を建立した。明治15年の創建で真言宗高野山派別格本山で弘法大師の像を祀り新高野山と号した。
 
 また寄進の筆頭大倉喜八郎、安田善次郎両氏の姓の頭文字をとり、楽の一字を付して大安楽寺と名付けた。
 当時の寺の位置は図に示したように旧囚獄跡の東南部、400坪で、寺の表山門は東側にあり、処刑場跡の東南隅は空き地のまま残した。(後略)」(松風会蔵『松陰先生関係写真図説』中村利男著、昭和39年2月29日)
 道路を挟んで北側は区立十思(じっし)公園、その西が十思スクェアで、もと牢獄跡地である。公園前の東京都中央区の由来板には次のように書かれている。
 「(前略)当時は敷地総面積2618坪、四囲に土手をを築いて土塀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門があった。牢舎は揚(あがり)座敷、揚屋(あがりや)、大牢、百姓牢、女牢の別があって、揚座敷は旗本の士、揚屋は士分僧侶、大牢は平民、百姓牢は百姓、女牢は婦人のみであった。今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があって、山岡鉄舟筆(天保7年(1836)から明治21年。幕臣、政治家、思想家、剣・禅・書の達人)の鋳物額に「為囚死群霊離苦得脱」と記されている。牢屋敷の役柄は牢頭に大番衆石出帯刀、御?場死刑場役は有名な山田浅右衛門、それに同心78名、獄丁46名、外に南北両町奉行から与力一人月番で牢屋敷廻り吟味に当たったという。伝馬町獄として未曾有の大混乱を呈した安政5年9月から同6年12月までの1年3ヶ月の期間が則ち安政の大獄で吉田松陰、橋本左内(さない)、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)等50余人を獄に下し、そのほとんどを刑殺した。(後略)」
 
 十思公園北側の入口には、和風の屋根付きの門(冠木門)がある。ここには「吉田松陰終焉の地」「辞世の句」及び「吉田松陰略歴」と三つの松陰関係の石碑が並んでいる。木が茂り雨に打たれた石碑は黒く、あたりは暗く何が書かれているか殆ど見えなかった。フラッシュ撮影を試みるが、濡れている石碑は光を反射して何も写らない状況であった。 この三つの石碑は、松陰入牢居室の辺りと言われる十思小学校校庭にあったが、昭和14年に現在の場所へ移された。
 
 公園等の名称となっている「十思」は、この小伝馬上町が学制の第一大学区第一中学区第十四小学区に属し、十四小区であることが「資治通鑑(しじつがん)」(司馬光(しばこう)の著。周の威烈王から五代の終わりまで1362年の歴代君臣の事績を編集したもの。)の「十思の疏(そ)」(唐の魏徴(ぎちょう)が、太宗皇帝に差し上げた十箇条を列挙した、天子のわきまえねばならない戒め。)と語が通じるところから名付けられた。
 
 「囚獄の跡地は明治以降陸軍省の用地となり、憲兵隊屯所等が置かれた。明治35年東京市は代替地を提供しここを学校敷地として得ることができた。
 その地へ明治38年3月上町女子尋常小学校が創設された。ところがこの上町小学校の校長は近くにあった十思小学校(明治30年建設、創立は明治10年、男子校)の校長が兼務した。一方十思小学校は明治38年12月、校舎総改築の話が起こり、当時十思校と上町校の中間にあった円光寺(浄土宗西山派総本山別院)の敷地
と学校敷地の一部を交換し、明治44年、上町小学校に隣接して十思小学校が建てられた。
 大正5年7月両校は合併して東京市十思尋常小学校となった。
 
 大正12年9月1日の「関東大震災」により学校・寺院全ての建物が消失した。」(『松陰先生関係写真図説』中村利男著、昭和39年2月29日)
 ここの区画は江戸時代の古地図、明治の地図によれば平行四辺形(菱形に近い)をしていたが、大規模区画整理が行われ現在の形となった。そ
こへ十思小学校・十思公園・三つの寺院が建てられた。平成2年3月十思小学校は廃校となり、日本橋特別出張所仮庁舎として使われ、平成13年改修・整備され、区民サービスの複合施設「十思スクェア」となった。中には在宅保護支援センター・訪問看護ステーション・体育館・保育園等、敷地内には菜園(水田・畑)等がある。
 
 松陰はこの伝馬町の獄に2度繋がれた。1回目は下田踏海に失敗し、国禁を犯した罪で安政元年4月15日から9月18日までの182日、2回目は安政の大獄で安政6年7月9日から10月27日、処刑されるまでの107日間である。この地での松陰の最期が目に浮かぶようである。
 先ず評定所(ひょうじょうしょ)での判決の申し渡しがあったときのことを小幡談に見たい。
 小幡高政談、(長州藩の公用人(雇われて藩の公用をした。通称は彦七)松陰処刑の日、藩の代表者として評定所に出て判決に立ち会った。この談話は小幡がその娘小川三香(昭和5年95歳で没。萩修善女学校理事)に日頃の語りぐさとして伝えたものである。高政は明治39年、90歳で没。)
 
 「奉行(ぶぎょう)等幕府の役人は正面の上段に列坐、小幡は下段右脇横向きに坐す。ややあって松陰は潜戸(くぐりど)から獄卒に導かれて入り、定めの籍に(つ)き、一揖(いちゆう、軽くおじぎをすること)して列坐の人々を見廻はす、鬚髪(しゅはつ、あごひげと髪の毛)蓬々(ぼうぼう、と伸びているさま)眼光烱烱(けいけい、きらきらと光るさま)として別人の如く一種の凄味あり。直ちに死罪申渡しの文読み聞かせあり、「立ちませ」と促されて、松陰は起立し、小幡の方に向ひ微笑を含んで一礼し、再び潜戸を出(い)づ。その直後朗々として吟誦(ぎんしょう)の声あり、曰く「吾今為国死。死不負君親。悠々天地事。鑑照在明神(吾今国のために死す 死して君親にそむかず 悠々たり 天地の事 鑑照明神にあり)」と。時に幕吏等なほ座に在り、粛然(しゅくぜん)襟(えり)を正して之れを聞く。小幡は肺肝(はいかん)を抉(えぐ)らるるの思あり。護卒(ごそつ)亦傍(かたわら)より制止するを忘れたるものの如く、朗誦終りて我れに帰り、狼狽(ろうばい)して駕籠に入らしめ、伝馬町の獄に急ぐ。」(『吉田松陰全集』第10卷p315)
 次ぎに、処刑場の松陰を依田学海日記と松村介石の『東洋文化』第1号に見る。
 依田学海日記(天保4年(1833)〜明治42年(1909)、漢学者、佐倉藩士、藤森弘庵に学び、藩の儒官となり、慶応3年江戸留守居役となった。明治以降演劇会で活躍。(吉田松陰全集10卷より))、安政6年11月8日
 「過ぐる日、川本三省と共に吉本平三郎といふ八丁堀同心の家にゆける時、さまざまの物語の次(ついで)に、平三郎云ふ、「過ぎし日死罪を命ぜられし吉田寅二郎の動止には人々感泣(かんきゅう)したり。奉行死罪のよしを読み聞かせし後、畏(かしこ)まり候よし恭敷(うやうやし)く御答申して、平日庁に出づる時に介添せる吏人に久しく労ををかけ候よしを言葉やさしくのべ、さて死刑にのぞみて鼻をかみ候はんとて心しずかに用意してうたれけるとなり。凡そ死刑に処せらるるもの是れ迄多しと雖も、かくまで従容(しょうよう、ゆったりと落ち着いたさま)たるは見ず。多くは命(めい)をよみ聞かせらるる時、上気して面色赤く、刑場に赴く時は腰立たず、左右より手をとり行くに、踵(かかと)地につく事なし」と云へり。(後略)」(『吉田松陰全集』第10卷p311)
 
 松村介石所説(安政6年(1859)〜昭和14年(1939)、明治・大正・昭和期のキリスト教指導者、宗教家、教育者。雑誌「東洋文化」第1号に掲載文。)大正13年2月某日
 「吉田松陰が江戸に於て首を斬られた其の最期の態度は、実に堂々たるものであった。松陰の首を斬った当の本人(山田浅右衛門)は、先年まで居って、四谷に居った。其の人の話によると、愈〃(いよいよ)首を斬る刹那(せつな)の松陰の態度は真にあっぱれなものであったと云ふ事である。悠々として歩を運んで来て、役人共に一揖(いちゆう)し、「御苦労様」と言って端座した。其の一糸乱れざる、堂々たる態度は、幕吏も深く感嘆した。」(『吉田松陰全集』第10卷p316)
 
小塚原処刑場跡
 東京メトロ日比谷線南千住駅を降り高架橋を渡るとすぐ延命寺がある。この付近は小塚原刑場跡地で、寛保元年(1741)に、刑死者を弔うために29個の花崗岩からなる寄石造りの延命地蔵尊が建てられた。寺名はこの地蔵名から来ているとのこと。
 
 寺内(じない)の案内板には「小塚原刑場は慶安4年(1651)に創設、死体は丁寧に埋葬せず申し訳程度に土を被せるくらいだったので夏になると周囲に臭気が充満し、野犬やイタチの類が食い散らかして地獄のような有様であった。」と。
 
 北へ少し歩くと回向院(えこういん)がある。処刑者を弔うために、寛文7年(1667)、本所回向院の住職弟誉義観(ていよぎかん)が常行堂を創設した。これが南千住回向院である。塀で囲まれた狭い敷地内に建物と墓所がある。墓所を入って真っ直ぐ奥に「松陰二十一回猛士墓」と彫られた松陰の墓がある。右隣は橋本左内の墓である。
 
 松陰は伝馬町牢獄処刑場で処刑の後、この小塚原へ埋葬された。この埋葬の経緯については、安政6年11月15日付け飯田正伯(しょうはく)・尾寺新之丞(おでらしんのじょう)から高杉・久保・久坂宛の「埋葬報告書」(「吉田松陰全集」第10卷p177)に詳しく認(したた)められている。要約すれば、飯田・尾寺が処刑の後、獄卒を訪ね遺骸を下付されるよう依頼をした。10月29日になってやっと千住回向院にて下付すべしと知らせを受け、両名は桂小五郎・伊藤俊輔(博文)と共に葬ったのである。
 
 「…僕両人(飯田と尾寺)の本懐とすることは、先生(松陰)の御死骸を××乞食の手に落とさず此の方へ受取り候一件は、私共平生の交誼(こうぎ、目上の人に親しくして貰っていること)の情相(あい)達し、欣躍(きんやく、喜んで小躍りすること)の至り、面目の次第に御座候(ござそうろう)。」
 何事もなく死骸を受け取ることが出来たことを喜んでいる。当時はそのことさえ難しかったことが伺える。
 「…二十七日四ツ時(午前10時)伏誅(ふくちゅう、処刑すること)に付き直様(すぐさま)賂金(ろきん、賄賂)を諸人に散じ、首と躰とは××の手に渡らざるやうに掛け留め置き候へども、獄中の役人六
七人計り容易に死骸を渡さず、各々両人(飯田・尾寺)の心底をうたがふと相(あい)見え候に付き、二十八日終日心配すれども事とげず、二十九日昼八ツ時(午後2時)ついに正伯(飯田)が姓名を名のりて獄役人に面会す。尾寺を残し置き候事は、万一正伯手段にて事果さざるときは、尾寺をして後詰(ごづめ)の策(次の計画)を計(はか)らする為めに残すなり。此の三日間の苦心、筆舌に尽し難く候。…(略)二十九日七ツ時(午後4時)弥〃(いよいよ)死骸を受取り骨ケ原(小塚原)の手向院(回向院)の末寺に葬祭す。
其の時桂小五郎并びに手附け利介(伊藤)手向院(回向院)に待受け居り候に付き、四人立合にて死骸を改め、躰骸は下卒に水洗させ候へども、首は下卒の手にかけず、正伯提げて之れを洗ひ清む。桂・尾寺両人手酌にて水を灌す。此の時四人の憤恨(ふんこん)遺憾(いかん)御推察下さるべく候。右一件に付き公金二十両余賂費する。公金を出し呉れ候者は周布(すふ)・北條(ほうじょう、藩政府の役人周布政之助と北条瀬兵衛。)の心配好意に之れあり候。…」
 
 29日夕方になってやっと桂・飯田・尾寺・伊藤の4人で遺骸を清め埋葬することができたことが伺える。
 「陳て久保君(清太郎)より御送り下され候金拾両(じゅうりょう)は十一月二日に爰許(ここもと、私)に達し直ちに受納仕(つかまつ)り候。幸なることにて此の金にて大なる石塔建立致すべくと当節心配仕り、已(すで)に今月十七日には調(ととの)ひ候に付き、両人寺へ参る覚悟に罷(こう)り居(お)り候。夫(そ)れにて建立一件も事成就(じょうじゅ)致すべく存じ奉(たてまつ)り候。石塔代金四両三歩斗(ばか)り入用、残り金五両壱歩之れあり候。この金を以て寺の土地を借り受くる祠堂金(しどうきん)に致すべく存じ奉り候。…」
 
 このようにして建立された石塔は「墓碑」(「吉田松陰全集」第10卷p183)によれば、堅実なる大石を撰び、万代不易なもので、高さ6尺(180cm)、寺中一の大きな墓であった。しかし、幕府の命により松陰の墓も含めて回向院内の碑が全て徹せられた。4年を経て文久2年に安政5年以後、国事のことで罪を受けた者は許され、罪名を削ることとなった。
 これにより久坂義助(玄瑞)はまた回向院の墓域に碑を建てた。現在残っている碑はこれである。(最初に墓碑を建立した場所ではない)
 文久3年正月5日、高杉・伊藤・山尾・白井・赤根等が中心となって、松陰及び頼三樹三郎・小林民部を現在の東京松陰神社の墓地(世田谷若林、写真)へ改葬した。
 東京松陰神社は以前にも参詣したので次の機会に。
(松風会事務局長 室 謙司)
 


 
内容:「松風会の歩み」(松風会は前身の松風寮から、今年が50年目の記念すべき年)
     紀行文「松陰先生終焉の地」「松陰の生涯」
     その他
 申し込まれれば送付(無料)します。
 申込先 財団法人松風会事務局 753-0072 
       山口市大手町2−18 
       山口県教育会館内
       TEL/FAX 083-922-1218
       shohukai@gold.ocn.ne.jp

松陰先生に学ぶ読書会を
 
財団法人松風会理事長 河 村 太 市 
 昨、平成21年10月27日は、松陰先生殉節150年目に当たっており(1859年10月27日没)、続く本年8月4日は、松陰先生生誕180年目で、松陰神社ではそれぞれ大祭が斉行されました。取り分け、昨年の大祭に合わせて、松陰先生関係の宝物を保管・展示するための「至誠館」が、松下村塾の向かい側に瀟酒(しょうしゃ)な姿で建設されましたことは、まことに意義深く素晴らしいことでした。
 
 さて今日、松陰先生を敬慕し、先生に学ぼうとする人びとは少なくありません。先生ご自身の著作や書簡を学ぶ者、あるいは先生について書かれた研究者、伝記、あるいは小説などを読んでおられる方など、先生への接近の仕方、学び方は様々であります。そうした学び方の一つに、複数の仲間による読書会があります。構成員の数は、2人の場合から10人内外の場合まで様々です。複数の仲間と読むことは、それなりの利点があります。ひとりで読む場合は、自分の力の範囲で読んでいるわけですが、複数の人によるときは、それなりの複数の力でもって読んでいるわけです。「これはそういうことなのか」、「そういう見方も出来るのだな」などと新しい発見があるものです。読書会の最大の利点であり魅力だといえましょう。
 
 また次のようなことも利点といえましょう。それは、仲間に連れられ中断が防げることです。
 一つの例を紹介しましょう。防府松陰研究会(小川善博会長)では、松風会著作の『脚注・解説 吉田松陰撰集』が発行された直後の平成8年4月26日から同書を読み始めました。毎月1回(2時間)の会合を続け、平成21年8月28日に全巻717頁を読了することが出来ました。この大冊も、誘い合いのおかげで、中断することなく、兎も角も読了出来たのです。なお、先に紹介しました防府松陰研究会の小川善博さんは、松風会主催の「松陰研修塾基礎コース」には欠かさず出席されていることも、防府の読書会が長続きしている要因の一つでありましょう。
 
 現在、山口県内の松陰先生に学ぶ読書会としては、萩市、美祢市、防府市などがあります。この外にも各所にあったようですが、会員の転勤など
 
により閉鎖のやむなきに至ったところも何か所かあったように聞いています。
 今後、松陰先生に学ぶ読書会が、各地で開催されるようになることを心から願っております。もし読書会設立のご意思がありましたら松風会にその旨をご連絡ください。松風会としても、微力ながらも、お役に立ちたいと願っているところであります。
 


      
  
 
                                   
  






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